旧三島郡三島町(現長岡市)には、数々の伝説が伝えられています。その中でも寛益寺にまつわる伝説を紹介します。
逆谷から与板へ通じる峠の頂上に、大小二つの池が並んでいる。仁王様の膝つき池と呼んでいる。
昔、寛益寺の仁王様は力持ちなので、頼まれて蒲原へ作男に出、百姓奉公をして、仕事が終わったので帰ろうとしたら、雇い主が、
よう働いてくれたので駄賃として稲堆(いなにお)の稲をくれるから、背負われるだけもっていけ、と言った。
作男の仁王様は欲張って、堆ごとそっくりかついで帰途についた。
この峠一つを越えれば寛益寺の我が家に着くと思ったとき、さすがの仁王様も、あまりの重さに、つい膝をついてしまった。
そして、その膝をついた所がくぼみになり、水がたまって池になったという。名付けて、仁王の膝つき池という。
この話は『温古の栞』二三編古書器の部にも載っているが、その内容を紹介してみよう。
逆谷の寛益寺に、兄が四郎兵衛、弟が源八と名のる兄弟がどこからかやってきて、雑用を務めて働いていた。
ころは宝永年間のことである。二人は常にまじめによく働いた。しかし、住職の高禅は、当時世に聞こえた徳の高い名僧であったので、
この兄弟が人間ではないということを早くから見抜き、仏法の真理を説き聞かせることによって、なんとか救ってやりたいと心中考えていた。
この兄弟は実は狐であった。そして、自分たちの正体を住職に見抜かれたことを知ると、自ら狐であることを明かし、
形見のために自筆の証文(書かれている文字ははっきりしているが、一見して人間の筆跡でないことがよく分かった)を残して姿を隠した。
そこで、これを狐の証文と名付けた住職は、与板領主井伊家にそれを届け出たという。この話が世間で有名になり、その証文は今日も残っている。文面はおよそ次のとおりである。
一、このたび、私たち兄弟は、当寛益寺に使っていただいておりましたが、実は越後国頸城郡の黒姫宮に長く住んでおりました早川松葉という狐でございます。 400年余り、かの地に住んでおりましたが、145年前から新潟の近くに出てきて、これまで七度人間に頼り、助かろうとしましたが、助かるべき縁に恵まれませんでした。 このたび当寺に参りまして、方丈様からいろいろ教えていただいて成仏することができましたことは、まことにありがたいことでございます。 このうえは、日本六〇余州は申すに及ばず、唐土(もろこし)・天竺(てんじく)に至るまで、以後、人畜に取り付いて迷惑をかけるようなことはいっさいいたしません。 このご恩はいつまでも忘れず、この寛益寺や近くの村々をお守りするつもりでございます。
昔、寛益寺の子どもが用を言いつかって、朝早く出雲崎へ使いに出た。出かけるときに、仏事に入用だからと、油揚の買い物も言いつかった。
ところが、子どもはその日は寺へ帰って来ず、翌日の晩になって、へとへとになって戻ってきた。しかも、言いつけられた油揚は一枚も持っていなかった。
何事があったのかと尋ねると、実は出雲崎で用をたし、油揚を買って日暮れころ剣ヶ峯の峠にさしかかると、恐ろしい顔をした二人の男が刀を抜き、向かってきたので、肝をつぶし気を失ってしまった。
そして気がついたときには夜も明けてしまっていた。預った書状はあったが、買ってきた油揚はみんななくなっていた、と話した。
これを聞いた住職は、これはきっと狐の仕業に違いないとさとり、ごまをたき、金縛りの法を行った。その夜、方丈様の枕元に烏帽子(えぼし)・直衣(なおし)を着けた者が現れ「私が召し使う狐二尾が、かの油揚がほしいためにかかる不義なる業をいたし、まことに申し訳ありません。
ただ、今は戒めのための金縛りのため、動くことができなくなっているので、どうか許して金縛りを解いてやってください」とわびたので、方丈は以後このようないたずらをしてはならんと申し渡した。
烏帽子の者は、明日、かの狐を遣わし、おわびをさせますと約束して帰っていった。
翌朝、年のころ二〇くらいと三〇くらいの男姿の二尾の狐が、かみしもを着、大小を差して、お礼として玉の数珠(じゅず)を持ってやってきた。
方丈様は、これからはこのようないたずらは決してしてはならぬと申し聞かせた。そして、その約束として、わび証文を書くようにと言うと、年上の男がしたため、両人の印形を押した。
この二尾の狐は後日、寺の稲荷堂に祭られた。また、そのときのわび証文なるものが寺宝として伝わっている。
昔、中永の想天坊山に、想天坊の想太郎と呼ばれた化狢と、逆谷の曼陀羅寺山に、万太郎という仲よしの化狢が住んでいて、村人を化かすやら殺すやら、人々を怖がらせていた。
この化狢は「ばれる、ばれる(背負ってくれ)」とどなり、ぶって(背負って)やると、首からガリガリとかじり殺した。
あるとき、上条の新七という人が、頭に金鉢をかぶり、荷縄を持って山へ行くと、例の狢が出てきて「ばれる、ばれる」とどなったので「今日はおれがぶってやる」と言って、狢を背負って荷縄でぐるぐると縛りつけた。
すると狢は頭をガリガリとかじり始めたが、金鉢をかぶっているのでうまくかじれない。新七は急いで部落まで走り、待っていた村人といっしょにこの狢を退治した。この狢は万太郎であった。
万太郎が死ぬと想天坊もすっかり元気をなくし、谷底へ落ちて死んでしまったと伝えられている。
それにしてもこの新七の知恵と勇気には村人もすっかり感心し、ほめそやしたという。
天明三年、北越地方一帯に天然痘が大流行し、村人はばたばたと倒れていった。そのころ、剣ヶ峯の地主に徳兵衛という人がいたが、一人娘のお八重もとうとうこの病にかかってしまった。
そこで、八方手を尽くして医者を求め、良薬を与えたが、病は重くなる一方で今日明日をも知れない状態になってしまった。
ところが日ごろ信心のあつい下女が、「昨夜、夢の中に、霊験あらたかな寛益寺の薬師如来が現れ、鳥越の大休場という所にある地蔵尊に慈悲を乞い、そこにわき出ている霊水を与えよ、とお告げがあった。」と話した。
地主は取るものも取りあえずその地蔵尊を訪ね、そこの水をいただいて娘に飲ませたところ、さしもの大病も数日にして治った。徳兵衛をはじめ家族一同は、この霊験に改めて驚いた。
後年、徳兵衛は、娘お八重の病を治してもらった恩に報いるため、その地に小屋を建て、そこで晩年を送ったと伝えられている。
その地蔵尊といわれるものが、鳥越〜宮本線の、鳥越字上おその道ばたに立っており、現在も村人の信仰を集めているという。
上条の西方の山入りに、隠れが谷と呼ばれる所がある。
昔、文治年中、曽我十郎の弟禅師坊は、世をはばかって身分を隠し、修学のために各地を訪ね歩き、名に聞こえた逆谷寛益寺にやってきた。
禅師坊の知り合いの、大熊左衛門の下に庇護(ひご)されていたが建久年中、工藤左衛門の一族が、富士の裾野でのあだを討たんとしているとの風聞を耳にした。
そこで、禅師坊はこの谷に数か月隠れ住んだ、というところから隠れが谷と呼ばれるようになったという。その後、禅師坊は、国上の国上寺へ逃れたともいう。