Temple Treasure
寛益寺(かんにゃくじ)には、様々な指定文化財が所蔵されています。金剛力士像を安置した山門である仁王門や薬師如来立像をはじめ、持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)といった四天王立像や十二神将立像など、ここではその一部を紹介しています。
平安時代/桂材/新潟県指定文化財
寺伝では、行基菩薩の一刀三礼一木造りの霊仏と伝えられています。文化史上では、作風特異なる鉈彫となっています。 秘仏となっており、十二年に一度の寅年のみ開帳しております。 現代の新型コロナウイルス感染症のように、平安時代に越後で疫病が流行った際、 現世利益の薬師如来像が各地で安置されたと伝えられており、寛益寺の本尊もそのひとつだったと考えられています。 病苦を取り除いてくださる寛益寺の薬師如来は、現代でも三島地域はもとより県内県外でも信仰を集めています。
多聞天・持国天:平安時代/栃材/新潟県指定文化財
増長天・広目天:鎌倉時代/檜材/長岡市指定文化財
四天王は、十二神将と並んで十六善神と呼ばれる武神の中の四体で、寛益寺の四天王は造像時期が二体ずつ異なっています。 以前の寛益寺の境内やその周辺には寺院やお堂があり、その中の仏像が最終的に寛益寺に集まったため、 造像時期が異なる二体が安置されていると伝えられています
平安時代/桂材・檜材/新潟県指定文化財
十二神将は、薬師如来の脇侍である日光菩薩・月光菩薩と共に、それらを守る武将です。 それぞれが十二支を頭の上に乗せており、十二の方角を守っています。 寛益寺の十二神将の表情は豊かで、学術的にも珍しいものであると言われています。
南北朝時代/欅材/新潟県指定文化財
昔から「逆谷の仁王様」として親しまれている金剛力士像二体(阿像・吽像)が、門の左右に安置されています。 また「仁王様の股くぐり」ができることから、多くの方からの信仰を集めています。 江戸時代の像修理の際に、寺の歴史・発願者・住職・衆徒名・地頭名・寄進者・開眼年月日等が記された胎内名文が判明して、当時話題となりました。
長岡市指定文化財
現在の仁王門は、江戸時代の元禄十四年(1701)年五月に破損し、古材に新材を補って七月に完成した門です。 昭和三十六年の集中豪雨裏山崩壊で諸堂庫裏共に壊滅しましたが、この茅葺きの仁王門のみ唯一残っている建造物です。
長岡市指定史蹟
曾我兄弟の末弟で、国上の地で出家をしました。鎌倉幕府に捉えられた後、殺されてしまいました。 集落の人々が遺骨を縁ある寛益寺に葬ったとされています。護持仏であった阿弥陀三尊は、 寛益寺の奥の院であった曼荼羅寺本尊として安置されていたが、与板牧野藩の菩提寺泰安寺の本尊に懇望され、信州小諸に移りました。