寛益寺について
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寛益寺について

About KANNYAKUJI

当山は新潟県長岡市逆谷(さかしだに)の地にあり、寺名は醫王山遍照院寛益寺(いおうざん へんじょういん かんにゃくじ)と言います。 養老二年(718)に行基菩薩が諸国行脚の際、一国一所の霊地として逆谷を選び仏法相応の聖地に草庵を結ばれたことをもって、当山草創の濫觴としています。 本尊の薬師瑠璃光如来は、行基菩薩の御作で一刀三礼の霊仏で、越後三薬師の一つであり、十二年に一度、寅年に開扉している秘仏です。 新潟県の指定文化財にも指定されています。

平安時代、平城天皇の頃、七間四面の伽藍を中心に諸堂が整い、醍醐天皇の頃、慈覚大師の弟の円弘が伽藍再興に尽力し、現在曼荼羅寺跡地と呼ばれている処には、 曼荼羅寺・十八坊があり、修業道場として殷賑を極めたと伝えられています。
鎌倉期、曽我禅師坊(五郎・十郎の末弟)縁あって隠れ住み、護持仏阿弥陀三尊は、曼荼羅寺主尊でありましたが、江戸期に、与板牧野藩の菩提寺泰安寺の本尊に懇望されて、 信州小諸に移り、現在長野に現存します。
上杉謙信がしばしば戦勝祈願をした折に用いた弁慶手書きと伝えられ、大層敬われていた大般若経は、上杉家会津国替えで、寺宝とともに移されて、 今は米沢の成就院に現存しております。祈願の礼状は米沢にある上杉博物館で国宝として保存されています。
江戸寛永期、本堂雪害で屋根大破し長岡藩主、藩士の助力で修復し、正徳二年(1712)全山火災の災難で、諸堂焼失し、僅かに末寺、当山鎮守、鳥居、 仁王門を残すのみとなりました。
享保元年(1716)与板・長岡両藩主、十万人講中の合力寄進で、八間半四面の薬師堂が完成しました。 昭和三十六年の集中豪雨の裏山崩壊で、諸堂庫裏ともに壊滅しました。その際に主なる御仏像は本堂屋根瓦の修復の為、経蔵に移していたため難を逃れ、 昭和四十三年(1968)に境内に仏像収蔵庫が、公費・寄進で完成しました。現本堂は平成二十年に上棟したものであり、平成二十二年に恒例の寅年開帳をし、 平成三十年(2018)には開創千三百年を迎え、記念行事を催しました。